2024年01月14日(日) 美濃田の大仏さんフリーハイキング(松阪市) (車、徒歩)
三重県サービスセンター共同事業として昨日との2日間、〜2024新春初歩き〜松阪・美濃田の大仏さんフリーウォーキングが開催された。私も入会しているので【キタヰの妻】と2人で参加した。
今回は、松阪農業公園ベルファームから美濃田大仏まで次のルートで歩き、
大仏から竹林を引き返し竹林を出ると行きのルートからは外れ、泉の森、護国山国分寺まで巡った。その後はベルファームまでまっすぐに。
受付を済ませ、マップとお茶とお菓子を受け取ると、
四郷池の脇を歩いて
ベルファームを後にした。
道路の向かい側には、この案内板が待ってくれている。これはミミズクか?
彼に導かれるので
迷うことなく美濃田竹林街道の入口にたどり着く。(大仏から戻り竹林を引き返した際は、この十字路を右方向へ進んだ。)
ここからは竹林だ。
ここにも彼がいる。
竹林を抜けると
美濃田大仏殿への案内板。
案内に従って進むと敏太神社の前にたどり着いた。
二年ほど前に式年遷宮を終えていた。
鳥居をくぐると参道の左手には放生池と弁財天。
手水を受けて、先へ進むと「八幡宮」の扁額が掛かっている。
新しい敏太神社にてお参り。
隣の敷地にはこのようはモノが? これは何だろう?
敏太神社を後にすると今回のタイトルにある美濃田の大仏殿へ。
2種類の説明板が立っているので、パチリ、パチリ。
【大仏殿と真楽寺と敏太神社】
明治までは、真楽寺と敏太神社は同じ境内地にありました。仏と神の御本体は、同一で御本体は、時には仏となり、ある時は、神と姿を変えて私達に救いの手を差し伸べて下さいます。
それゆえ、真楽寺の御本尊薬師如来は、
疫病平癒の神、須佐之男命(すさのおのみこと)として、又
阿弥陀如来(美濃田の大仏)は、五穀豊穣の神
誉田別命(ほんだわけのすめらみこと)として敏太神社に祀られています。
大仏殿の屋根の扁額に書かれている「安養殿(あんにょうでん)」とは、極楽浄土の別名で、安らかに心と体を養って、速やかに仏と同じ知徳を得るという意味です。
正面四間、側面三間の二層造り、東大寺の大仏殿を模していると言われています。
蓮華の台座に安置されている阿弥陀如来は、高さ三メートルあり、地方でこれだけの大きさの金銅仏が祀られているのは、珍しいと言われています。いにしえより
五穀豊穣、病気平癒の祈願所として
地域の人々に崇拝され親しまれています
令和二年五月吉日
銅像阿弥陀如来坐像(美濃田大仏)
市指定有形文化財 昭和三十一年十一月十三日指定
時代 江戸時代大仏殿に安置された上品上生(じょうぼうじょうしょう)の定印(じょういん)を結ぶ、地域には珍しい大仏で、元文二年(1737)ごろの作と考えられる。像の左膝部には「紀州粉河住 蜂屋平右衛門正勝」と製作者の名前が陽刻されている。
この大仏は、隣接地の敏太(みぬだ)神社の八幡宮の本地仏として真楽寺三世静室素住と地元の中川清左衛門とが協力して造立している。真楽寺には、造像資金を集めるため、享保十四年(1729)より三ヶ年間、市場庄町の参宮街道道端へ小屋懸けし、そこに丈六の絵像をかけ、真楽寺の弟子たちが詰めて、往来する旅人から喜捨(きしゃ)を得たい旨、関係筋へ願い出たそのときの文書が残っている。
なお、明治初年、廃仏毀釈により大仏は一時真楽寺へ移されたが、明治九年有志が台座を新造して現位置へ大仏をもどしている。
ニ○十四年七月三十一日 松阪市教育委員会
大仏殿の脇から大きな大仏を眺めた。
台座も大きいので、さらに大きい。
先ほどの説明にあった真楽寺にもお参り。
その後は、竹林へ引き返すと
先に紹介した十字路で左方向へ進んだ。
こんな風景を楽しみながら進んだ。
こちらの交差点で、横断歩道を渡ると
前方には泉の森が望める。
こちらは、大神社跡とのこと。
さらに、このような風景を楽しみながら
護国山国分寺へ向かった。
国分寺にて
お参りすると
あとはベルファームへ戻るのみ。
国分寺脇の道をベルファーム方向へ・・・
松阪農業公園ベルファームにたどり着くと
続いては、弁当を温かい味噌汁を受け取って屋外のベンチにて昼食。
昼食を終えるとイングリッシュガーデンへ入ったが、この時期だけに花は少ない。
少ないながらもそれぞれを愛でて・・
イングリッシュガーデンを後にすると、松阪農業公園ベルファームも後にした。
続いては、松坂城跡付近へ。