偶然に見かけた火除天神社は「天神丘」の名の由来

2024年03月03日(日) 偶然に見かけた火除天神社は「天神丘」の名の由来 (徒歩)

時々、幟旗を見かけたので「火除天神社」の存在は知っていた。

ただ、その場所を探すことはなくお参りしたことがなかった。

本日のぶらりで偶々鳥居を見かけたところ、こちらが火除天神社だった。

火除天神社(伊勢市二俣)

火除天神社(伊勢市二俣)

 

鳥居をくぐると

火除天神社(伊勢市二俣)

火除天神社(伊勢市二俣)

 

左手には二俣天神と記された手水石があり

火除天神社(伊勢市二俣)

火除天神社(伊勢市二俣)

 

正面には小祠がまつられている。

火除天神社(伊勢市二俣)

火除天神社(伊勢市二俣)

 

その手前に立つ説明板には

火除天神社(伊勢市二俣)

火除天神社(伊勢市二俣)

 

由来が紹介されていた。(以降、赤文字は【キタヰ】による)

火除天神社の由来
当社の祭神は菅原道真公で、その由来については、宇治山田市史によれば、「麓の塵」巻ニの中に「右は長禄四年(1460)の頃乱世にて、播磨国曽祢村に鎮座する天神社頭廃亡につき、伊勢御師白米彦太夫家に移し置き、その後、夢のお告げによりて覚伝法印に授け、法蔵院の寺内に社を建て、御像を安置せしより今に至る迄、諸人是を寺庭の天神と稱せり。元文四年(1739)八月二十四日酉刻、寺庭の天神を二俣町正法寺辺西方へ遷幸し奉る。この時初めて宮社を構え、社殿を経営、来田監物地類東の方二俣町の屋敷なり。」とある。
明治維新後、廃仏毀釋令(明治元年)により正法寺廃絶。同三年三月二俣町会所世古に遷座した。同四十二年郷社合祀令が出されたが、表通りの田端季禎邸内に高台を築造して密かに奉遷した。
そして、大正初年再び町会所世古に祀った。
古来この天神社は、火除天神として尊崇ことのほか篤く、それにまつわる秘話も多い。昭和二十年七月二十九日午前一時頃、アメリカ軍機による宇治山田市大空襲に際し、社殿炎上の際、祭神は白白と光芒を放ち、白龍となって昇天したという。
終戦後、町内有志の方々の献身的なご尽力と町民の協力により、同二十六年七月現在地に社殿を奉献。田端定雄氏寄進の菅公御立像(板倉白龍謹彫)を御神体として奉祀し、町民の健康、安全、学業成就と益々の繁栄を祈念している。
大祭は、毎年一月二十五日の初天神と七月二十五日の夏天神との二回とり行われている。
平成二十二年一月吉日
 二俣一丁目町会火除天神社奉賛会
本日も歩いた天神丘との関係が気になり、調べたところ

 

小祠拾(比呂比)には寺庭天神について次のように記されている。
(旧字は使わず、カナをかなに書き換えた)

寺庭天神 大覺山正法寺境内に在舊社十二所ノ内也
宝殿南面・御垣・拝殿・鳥居あり、社地広し、此天神、古は天神の上(ウエ)と云える墓山(ハマヤマ)の下(モト)、上三郷領と上中之郷との堺目に在て、寺庭ノ天神と云しが、寺は無く、社地広く、旧地今に存せるばかりにて樹木あり天神社此所に在し故に、其上の山を天神ノ上とも、天神ノ丘とも云 此天神は白米氏彦大夫の所持にて、其社地ともに支配なり(後略)

 

また、勢陽五鈴遺響では、正法寺および塚山(天神丘)の説明は次の通りである。

正法寺
同処(二俣)にあり 禅宗臨済派 本尊観世音寺伝云大同二年建創にして鎮主神祠に坂上田村麿を祀ると云未詳 天神祠 本堂の東傍にあり菅公の霊を祀る方俗寺庭ノ天神と称す 享保年の末に塚山より遷すと云(後略)

塚山
同処(二俣)田原の南にあり 一名天神ノ上ヘと称す 上三郷二俣辻久留中嶋の墓地なり故に旧昔より塚山と称すなるべし 頂に埋葬所あり 前に載す正法寺境内に祀る処の天神の祠は此山の南にありて古昔より梵刹の地なり 天神ノ上の称もここによれり (後略)

 

現在も墓所がある天神丘は塚山であり、天神ノ上天神ノ上ヘ天神ノ丘とも称されていた。

つまり、寺庭天神(現在の火除天神社)が天神丘の名の由来であった。

天神丘はトンネルの名前なので、その由来まで考えていなかったが・・・

 

現在の火除天神社はこちらから入って右手に鎮座する。

火除天神社付近(伊勢市二俣)

火除天神社付近(伊勢市二俣)

 

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