2024年01月14日(日) 井乃本井戸が紀州藩による殺生禁断の契機なのか?(松阪市伊勢寺町) (車、徒歩)
本日、ウォーキングの際、護国山国分寺の向かいに
【参考】
- 美濃田の大仏さんフリーハイキング(松阪市) 2024年01月14日
井乃本井戸を見かけた。
井乃本井戸に近づいて
覗いた後、
説明板を確認すると気になる記述を見つけた。( 太文字赤線 にした部分 )
井乃本井戸の由来
この井戸は、伊勢寺町井乃本神社の堺内にかつてあったものである。
言い伝えによれば、聖武天皇の勅を奉じて伊勢寺に国分寺を建立した名僧行基が掘ったという。当時聖武天皇の后、光明皇后が病気にかかられたので、井戸の水を献上したところ、直ちに全快された。
そこでこの霊泉の名が高まり、不老不死の名泉として遠近より水を汲みに来る者が後を絶たなかったといわれる。天平宝宇四年(760)光明皇后崩御ののち、この地に来た官女の夢枕に立ち、次のように詠まれたという。恋しくば、尋ねてもこよ伊勢の国
伊勢寺もとにすめるわらはを井乃本の歌碑に刻まれて現在ここに建っている。
その後、紀州徳川頼宣・光貞侯が二代にわたってこの井戸水を召され、殺生禁断の制札を建てるに至ったと言われる。平成二十年十二月二十六日
伊勢寺公民館郷土史研究会
紀州藩が建てた「禁殺生」石については、次の記事で紹介した。
【参考】
- 「禁殺生」石を訪ねてのお伊勢さん125社まいり 2018年11月18日
三重県内にある「禁殺生」石の建立年は享保癸卯(1723)、享保甲辰(1724)、享保丙午(1726)だが、1600年代(初代と二代目である徳川頼宣・光貞の頃)からすでに殺生禁断が徹底されていたのか?
国立国会図書館デジタルライブラリーで面白そうな本を見つけたので、この件についてはさらに調べてみよう。