2024年08月12日(月) 度会橋東詰交差点の下に残される[八幡社舊蹟]の石碑 (徒歩)
本日、度会橋まで歩いた2つ目の目的(1つ目は高向のお花畑展望台)は度会橋の東詰にあった。
度会橋バス停付近には、道路の反対側に
こんな階段がある。ここを下り、右方向へ進むと
その先には
石碑が立っている。
そこには[八幡社舊蹟]とある。
ここは、左の階段を上ると度会橋東詰交差点である。
石碑の隣にある電柱には[京町支7]のNTT電柱番号板がある。
以前からこの石碑が気になっていたので少し調べた。
宇治山田市史によると、京町の八幡社は
元は中島町字京町に在った。祭神は譽田別尊、戦国時代に度会郡上地村から遷移したものとの説もあるが、委しいことは、その由緒書が慶長五年中島一乱の際に消失したのでわからぬ。
さらに
明治42年3月8日に他の社とともに並社に合祀され、同月12日には並社が上社に合祀された。
とある。
また、神三郡神社参詣記には
宮川堤ヨリ内山田町内
小祠拾写本シテ少シ計差加へ参詣仕
とある。しかし、書き写されていない部分もあるため、ここでは小祠拾の記述を引用する。(ただし、カナをかなに書き換えた。)
八幡宮 京町に在
祭る所は八幡大神、寶殿南面・御垣・御門・拝殿・鳥居あり、喜多家出雲鎮守にて、社地広く旧き社なり、何れの頃より祭れるや、来由委く知らず、社頭の造替・祭祀等は当家の所役なり、祭は八月十五日なり、角力あり、節供に神楽あり掛橋村より勤之当社今の入口は古道にあらず、今の社地と古の社地とは大いに違えり、伊勢軍記中島乱の條に乾の隅、堤の半に八幡の森あり、この森より稲葉勢責入ると云、元は今の角力場の所より南へ直ぐ道ありて、中島の表、人家の間、今尚古道遺れり、毎年正月牛頭社の御頭往来の時、北面に禮あるは八幡社への禮なりと云 或老人の説
石碑の位置は、今の社地と古の社地のいずれを示しているのかわからないが
現在は上社に合祀されている。
なお、この石碑の背面には次のように刻まれている。
西伯利出征凱旋紀念
大正八年十一月建之
京町惣中