令和4年度 山田奉行所記念館 企画展「伊勢湾を渡った人たち」

2023年01月29日(日) 令和4年度 山田奉行所記念館 企画展「伊勢湾を渡った人たち」 (徒歩)

山田奉行所記念館 では企画展「伊勢湾を渡った人たち」が昨日から開始された。2月26日(日)まで。

令和4年度 山田奉行所記念館 企画展「伊勢湾を渡った人たち」

令和4年度 山田奉行所記念館 企画展「伊勢湾を渡った人たち」

 

山田奉行所記念館(伊勢市御薗町上條)

山田奉行所記念館(伊勢市御薗町上條)

 

令和4年度 山田奉行所記念館 企画展「伊勢湾を渡った人たち」

令和4年度 山田奉行所記念館 企画展「伊勢湾を渡った人たち」

 

この企画展は、以前に開催された次の展示内容の焼き直しで、一部に新しい情報が加えられていた。

【参考】

 

会場は展示への映り込みが激しいため、写真の掲載は控えておこう。自分自身の記録【備忘録】として、写真に添えられていた文章のみを以下に残す。

また、こちらの展示では冊子の図録が作られない。立派な展示内容なのでデジタルでも良いから図録を残せないだろうか。ネットでならもっと多くの方に観覧していただける(はずな)のに、以前からそう思っている。データさえいただければ(また、可能なら照明環境を調整して撮影できれば)、このブログの別サイトを立ち上げて紹介するのだが・・・


 

【解説文ほか】
1 近世、海路による三州吉田(いまの豊橋)からの参宮
(1) 伊勢参宮

 江戸期、平和が訪れると、幕府が五街道に置いた関所の通過は別として、村役人か檀那寺が発行する往来手形さえ持てば、交通は比較的自由になった。経済活動も盛んになったことから、伊勢参宮は一段と盛んとなり、毎年四〜五十万人の参宮が行われた。これは御師の活動の拡大、伊勢講の組織の普及の結果によるところが大きいが、人々にとって、伊勢への参宮は生涯に一度の夢であった。
伊勢参宮が江戸時代を通じて流行したが、なかでもある特定の年に参宮が熱狂的に行われた。これを「お蔭参り」といった。慶安三年(1650)、宝永二年(1705)明和八年(1771)、天保元年(1830)がその代表的な流行の年であった。なぜこの年に起こったのかは明らかではない。皇大神宮のお札が降ったとかの噂がたつと、たちまち参宮の風が全国に広まり、子は親に断りなく、妻は夫の許可を得ず、無断で参宮の旅に出た。抜け参りである。夥しい人が参宮に殺到した。天保元年には、閏三月の一ヶ月間に228万人の参詣人があったと山田奉行が報告している。

伊勢参詣曼荼羅

 中世の人たちにとって、伊勢はどのような地であったのだろうか。
神さんの信仰にもとづく「お宮まいり」の地というよりも、仏教や陰陽道などすべてが集合した一大宗教複合体の地であった。その証拠が「伊勢参詣 曼荼羅」という絵図である。
内宮は、祭神が太陽神としてアマテラスであっただけに、早くから密教の胎蔵界曼荼羅の「大日如来」と同一視されてきた。そのため、同じように外宮も、金剛界曼荼羅とされるようになった。
そして、伊勢比丘尼と呼ばれる人々が、慶光院に拠り、神宮の遷宮に大きく貢献した。
「伊勢参宮曼荼羅」は、案内図というよりも、両宮、朝熊山金剛證寺、高倉山古墳、その他の相対関係を示した模式図といえよう。

「伊勢御遷宮参詣群集之図」

 

(2) 伊勢神宮までの行程

三州吉田より勢州河崎迄絵図

旅日記による旅程

 原図は、三河国牟呂村神主森田充尋が、天保一○年(1839)に行った伊勢参りの旅程を示したものである。これに、御薗町長屋の百姓前田忠吉が明治二一年(1888)に行なった富士浅間参りの帰路の旅程を書き加えた。

 

伊勢参宮旅路日記 天保10年(1839)

 三河国渥美郡牟呂村の牟呂八幡宮の神主森田光尋が、海路にて佐久島を経て伊勢神宮を参拝し、帰路は佐屋路を通り、津島神社、熱田神宮を詣でて帰郷する8日間の旅日記である。環伊勢湾ルートが採られている。

 

(3) 吉田湊(今の豊橋)
吉田湊(いまの豊橋)

 吉田湊の起源は、関ヶ原の戦いに際し、今の豊橋市船町の人々が多くの船を出して協力した功労によって、藩主池田照政からこの町にのみ船役を命ぜられるとともに、地子御免ならびに船番組の特権を与えられたことによる。船番組の株数は50株で、船町75軒が順番で船役にあたった。
船町の所有する船の数は、正徳二年(1712)の「吉田惣町差出帳」によると、江戸廻船4艘、伊勢尾張通船17艘(百石内外積み)を所有していた。

 

服部嵐雪の旅日記

 俳人服部嵐雪の「杜撰集」から、嵐雪が元禄一三年(1700)この吉田湊から伊勢通いの船に乗ったときの情景を記した部分を抜粋したものである。

よし田の宿に日の暮たり。橋のもとまで行たれば、ふねにふねにとよぶ。いづかたへ乗ことぞときけば、参宮の道者爰よりのれば白子・河崎といふ所へ着て、くがには三日はやしといふ。身を持ものゝあやうき海路はいぶかしとて行過るもあり、もとよりつながぬ船のかゝる便宜しらぬ国ざとも見ばやとおもふこころ付て、苦の中さしのぞきたれば、三四十乗込たり。おほくは出羽の新庄・仙台のぬけ参り、遠州・山梨かいづらの籠作り、いもじ、大坂の商人なんど、春正が蒔絵のごとく押合たり。夜すがらすねにかしらもたせて、明六ツの汐合よしとて、船よそひして一時ばかりはしる。
服部嵐雪「杜撰集」 元禄十三年(1700)

 

(4) 吉田湊からの乗船

吉田湊からの乗船

 この湊からの乗船客は多種多様であるが、その大部分は伊勢参宮の近道として乗船する道者たちであった。乗船者及び収入支出などが記録された「船番組勘定帳」が明治六年(1873)まで記録されており、このなかから、享保一四年(1729)から寛政九年(1797)までの渡海人員がわかる。人数は年により、月により甚だしい相違はあったが、明和八年(1771)お蔭参りの年には14,578人を数えている。
船賃は、一人につき六六文ずつと定められていた。「豊橋市史」によれば、当時の※一升は二六文だったので、伊勢への船賃は米二升五合に相当したことがわかる。100石〜300石積みの船で、吉田・神社間の航路で一般に使用された。

 

参宮路の争い

 東国から伊勢神宮へ参拝する人々は、東海道吉田(豊橋)宿から船での伊勢への短絡路を知ると、熱田(宮)廻りによる旅より、吉田から船で伊勢へ来る人々が多くなった。
このため、熱田(宮)宿及び佐屋祝宿から、両渡船場が衰微に至るとして、寛政10年(1789)両宿から、それぞれの領主へ訴願があった。その結果、幕府の道中奉行が取り上げることとなり、関係宿町が吟味を受けることとなった。
伊勢からは、山田奉行を通して大湊、神社、河崎の年寄りが江戸へ呼び出された。吟味は、寛政10年(1789)7月から9月に及んだ。申し渡しは、翌年の1月となり、熱田(宮)、佐屋両宿からの願いは認められなかった。

 

(5) 大湊

 大湊の地名は鎌倉期から見え、諸国神宮領から年貢の集まる港として発達した。当初は大塩屋御薗内の港として発達し、南北朝期には、伊勢と東国を結ぶ太平洋海運の拠点として機能した。明応七年(1498)の地震津波で壊滅的な被害を受けたが復活、中世末期には、大湊老若や大湊公界という自治組織を形成し、船舶が往来する廻船業の拠点となった。多くの海運業にかかわる問や問屋が軒を連ねた。「大湊由緒書」によると、元禄八年(1695)の地震津波で、家数数千軒が500軒余に、大小廻船120余艘が10余艘になったとある。廻船から造船業にウェイトを置いた港になっていった。

 

(6) 神社

 神社港は、はじめ潮満寺の東南の入江にあったが、万治〜寛文年間(1660年代)に現在地に移転し、元文年間(1730年代後半)には諸国からの廻船が往来し、殷盛地となっている。海運業者も多く、享保17年(1732)所有船数も800石船1、600〜石船2、400石船5を数えた。但し、三河方面に向かう客を主とした百石内外の船があったがどうかは定かではない。問屋も土佐屋、内海屋、大塩屋など軒をならべた。文化15年(1818)には船宿26件を数えた。

 

(7) 河崎

 河崎の地名は室町期から見える。永禄11年(1439)の、この地位の補任状に、「除河崎」とあり、町としての自立が窺われる。また、戦国時代初期の長享年間(1487〜)に、地元の郷士・河崎宗次が防衛のため、惣門と環濠を備えたと伝えられ、自治都市的な町となっている。
16世紀に入り参宮者が徐々に増加し始めると、勢田川の水運を利用して。諸国からの物資を荷揚げ、人馬で山田・宇治へ送る仲介地として発展、米、魚をはじめとした各種問屋が立地し、伊勢の台所としての役割を果たした。神宮参拝者の増大した江戸期には、この地域の為替相場を持つ物流と金龍の中心地となり、さらには、東国経済と西国経済の境界としての役割を持つようにもなった。
明治になってからも、伊勢の中で、銀行が最も多く置かれるなど、商業の中心地として栄えた。

 

(8) 二軒茶屋

 二軒茶屋というのは、昔この地に、うどんの「湊や」と、餅の「角屋」という二軒の茶屋があったことによる。湊やは廃業したが、天正年間(1573〜92)創業の角屋は、今に営業を続けている。
この地区は、旧二見街道沿いに勢田川の河岸が広がり、船着き場があった。両宮に近いということで、漁船の利用による船参宮の上陸地として栄えた。また、一時期、吉田汽船により蒲郡、衣浦との間に航路が開かれた。
明治5年(1872)明治天皇がはじめて神宮参拝されたときには、大湊沖の御召艦より端艇に移られ、ここに上陸された。

 

2 明治以降、愛知県・静岡県からの船参宮

(1) 神社港の発展

明治になり、豊橋と神社港の間を運航していた吉田湊(豊橋)の船番組は解消されたが、新たに船町水便組合が結成され、「伊勢舟」による豊橋から神社港への参宮道者の輸送はそのまま続けられた。
明治3年(1870)、神社港の廻船問屋、乗船宿から度会県に差し出された文書によると、廻船問屋20軒、乗船宿3件を数える。
河崎にも、同じく明治3年、乗船待合所が吉田屋藤兵衛ら11軒、廻船荷物問屋が村田弥兵衛ら3軒あった。大湊には、幕末の嘉永6年(1853)、三川屋重三郎など45軒の船宿の存在が明らかである。

 

乗船者数

人の交通は、神社港が中心であった。参宮者だと思われる「他国通行」人と、所用で船出する「時刻通行」人別の、神社港における取扱数を示した表である。共立汽船の前身である東海汽船が営業を始めたのが明治20年(1887)10月であるが、この年から、乗客取扱数が急に増加している。また、ご遷宮翌年の明治23年(1890)も乗客数が突出している。

 

大崎屋引き札

神社港の明治初めの船宿は三軒で、吉田屋佐兵衛、大崎屋岩吉、大崎屋九右衛門。宿名の吉田は吉田湊、大崎は吉田湊近くの船溜の名で、当初は吉田湊の乗船客があふれたときに、伊勢行きの船を出していたが、幾度も吉田湊と競合を繰り返した。
資料は。飯田良樹氏による

 

(2) 蒸気船の運行

東海道蒸気通船会社が神社・豊橋間の運行を始めたのは、明治9年(1876)で、明治12年(1879)には、日に二回運行されている。
神社港では、中西九三郎ら五名と、尼崎汽船が共同出資で、明治17年(1884)11月、神社港共同汽船会社を設立、蒸気船により、神社・熱田間の旅客輸送を始めた。なお、中西九三郎(大崎屋)は、明治17年12月に持船の蒸気船両国丸で、渥美半島の牟呂・田原間の運輸業も始めている。

豊橋より伊勢参宮するときに航行する汽船あり。この汽船は伊勢参宮に甚だ便なり。先ず停車場より豊川に至れば、其処に衣浦汽船会社あり。小蒸気数艘烟りを吐きてあり。これより航路は衣浦を経て、知多半島を巡り、直ちに伊勢湾を航して神社の港に至る。
船参宮街道・田山花袋「神撰名勝地誌」

伊勢参宮の手引となる名所案内の絵図に、神社港の出船所で旅館を兼ねていた大崎屋の引き札が刷られている。顧客獲得のため、参宮の手引となる絵図を提供したのであろう。図下方中央に神社港が描かれ、「此所より吉田へ船出る」とある。
資料は、岐阜県図書館による

 

(3) 汽船会社の競合

このころ、神社港には、熱田と神社を結ぶ伊勢湾内航路の起点、終点として、汽船がほかにも就航していた。明治17年設立の熱田連合汽船共同会社(名古屋市 資本金1.6万円)である。この共同会社は明治20年(1887)1月、勢尾汽船会社(本店四日市市 資本金三万円)となる。勢尾会社は、翌21年(1888)3月には、東海汽船(名古屋市 資本金三万円)と合併、増資を行い共立汽船会社(名古屋市 資本金八万円)となった。当時、共立汽船は、神社港・津・四日市・熱田航路に4船を就航させ、毎日出帆した。また、神社港・半田・豊橋航路に2船を就航させ、これも毎日出帆した。紀州路各港をへての大坂行きは、旬日に4回出帆している。

 

(4) 神社港共同会社

神社港は、大船の接岸ができなかったから、港内では艀による乗客、貨物の輸送が必要で、集荷と平水海運業を目的とした廻船問屋が多く営業していた。廻船問屋は、汽船会社の動向に合わせて、神栄組、勢尾組に整理されていき、さらに二つの組が明治21年10月合併、神社港共同会社(資本金一万円 株主33人)を設立した。

(5)

(6) 漁船による参宮

自前の漁船を活用しての参宮も行われた。春には、入港時の様子から「どんどこさん」と呼ばれる漁船による集団参宮が、遠州や三河、尾張から、伊勢神宮をめざした。
三州や遠州からの漁船を活用した参宮道者は、春から初夏にかけてやってきた。漁船の動力化が進むのは、大正になってからで、三重県では、大正15年(1926)の「三重県漁村調査」で、なお漁船数の約10%にすぎない。これは愛知県でも、静岡県でもさほど変わりがないと思われる。
したがって、明治・大正期の参宮は、浜船と呼ばれる地引網に使う漁船や、鰹釣りに使う漁船を使って、帆と櫓により、伊勢をめざしたわけである。
遠州灘沿岸の漁村から静岡県磐田地方からの船参宮の様子を、「磐南文化」17号(平成3年発行)から紹介したい。
「四月の桜が咲くころ、ナライ(東南の風)が吹くようになると、若い衆は経験豊かな船頭に伊勢参りに連れて行ってくれるよう頼む。ナライが吹き始め、その日は天気が持ちそうだと船頭が判断すると出発する。初めは八丁櫓で漕ぎ出す。少し沖へ出ると、帆を揚げて海岸から500mほど沖合を磯伝いに進んでいく。そのうちに渥美半島西端の大山という山が見えてくる。伊良湖を過ぎると、渡合い七里と呼ばれる難所にぶつかる。下げ汐の時は一つの櫓に二人がとりついて太平洋に流れるのを防ぐことになる。神島を過ぎると波が比較的穏やかになる。こうして神社か二軒茶屋の宿に着く。」
伊勢では船参宮の道者を「どんどこさん」と呼んでいるが、これは伊勢湾内の三河や北勢の道者で、遠州の道者はやっとの思いで辿り着いたのだから、鳴り者入りで上陸する余裕はなかったようである。翌日、参宮を済ませ、夜は遊びに出、帰りは、西風が吹くのを待って帰途につく。
神社港を中心に、二軒茶屋、大湊は、古くから遠州、三河、尾張からの船参宮道者の上陸地で、毎年春先と田植えの済んだ時期に、賑わいを見せた。太平洋戦争が始まる前まで続いた。

渡合七里の難所
遠州灘沿岸漁村からの参宮の船は、海岸から500メートルほどの沖合を、磯伝いに帆走するが、渥美半島西端の伊良湖と神島の間に難所がある。この難所「渡合七里」では、太平洋に流れるのを防ぐため、下げ潮の時には一つの櫓に二人がとりつく。神島を過ぎると、波が比較的穏やかになる。

 

(7) 連合艦隊の上陸、参宮

昭和になってからの大きな出来事は、連合艦隊の上陸地に指定され、毎年2回、艦隊乗組員が半□上陸し、神社港を拠点に神宮参拝を行ったことである。実態は明確ではないが、昭和5年(1930)の上陸人員は凡そ6500人と記録されている。

 

(8) 船参宮の終焉

船参宮は、地域によっては太平洋戦争の後まで続けられている。静岡県の「新居町史」は昭和四十年代まで、また、「舞阪町史」は昭和三十年ころまで行われていたと記している。県内でも、櫛田川河口の藤原村では、砂利船3艘で、昭和三十年ころまで行われていた。

 

古文書に残された参宮船遭難の記録

鳥羽市桃取町の八幡神社には、元禄5年から明治39年まで年号のわからないものも含め、144点の難船文書が所蔵されています。今回はそのうちの一つを紹介します。
資料の提供、解読にあたっては、橋本好史さん(鳥羽市文化財調査委員長)のご協力・ご指導を仰ぎました。

 

3 青峰信仰

(1) 青峰山正福寺

東海地方の漁業者、廻船業者、その他海民に、海上安全の守護神として、古くから信仰を得てきたのが青峰山である。三州や遠州から伊勢参宮のあとで、青峰山にのぼる人々も多かった。
青峰山の信仰が広まったのは、貞享年間(1684〜88)に正福寺が再興されたのちである。境内の奉納遺物の中で最も古いものは、享保15年(1730)の手洗堂のつくばいであるが、近世中期から廻船業者の奉納したものが目立つ。山門前のひときわ大きい常夜灯は、天保期に大坂西宮樽問屋中が奉納したものである。

 

(2) 青峰信仰者の分布

県外では、静岡県の漁村で強く進行されていることが、「民間伝承309」で木村博氏が報告している。これによると、網代、伊豆大島、初島などでは、海の時化て船が危うくなると、「アオイ、アオイ」といって念仏が残されているという。
図の信者分布図は、奉納された護摩札、絵馬、常夜灯などの信仰遺物、講帳面などから、野村史隆氏が作成したもの。

 

(3) 護摩札

江戸期から明治初めにかけて、各地の船乗りや船主から、各地の船乗りや船主から、海上安全を願って揚げられた札であ、三十六枚が本堂と聖天堂に揚げられている。護摩札は、絵馬に彫り文字で、中央に「永代 護摩供施主」下に船主の名がある。最も多いのは、尾州廻船の十六枚で、中にはソニーの創業者の生家である酒造家盛田久左衛門のものが見られる。

 

(4) 絵馬

絵馬は明治期から昭和初期のものがほとんどで、野村史隆氏によると、凡そ100枚。大半は灯明台の縁起を示すように、時化の海で漂う船に天から現れた御幣から後光がさしているものである。

 

4 富士講

伊勢志摩の海岸や見晴らしの利く高台からは、季節や天気、時間により富士山を望むことができる。このことが富士信仰のベースになったと思われる。

 

(1) 富士山・本宮浅間神社

伊勢志摩の各地から、季節、時間、天気を合わせれば、富士山は遠望でき、拝むことができた。これは、昔も今も変わらない。
本宮は全国の浅間神社の総本社で、本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という神社建築様式で、国の重要文化財。祭神はコノハナサクヤヒメ。

 

(2) 富士講(浅間講)

富士講とは、ジゲ内に富士浅間(富士権現)を祀り、数年に一度、富士山に代参を送り、登拝する講である。毎年特定の日に行われる講行事は、一般に浅間さん、浅間講、富士講といわれている。この地域では、事前に垢離かきをし、町内安全、家内安全、五穀豊穣、大漁祈願、海上安全などの願かけをして、浅間さん、大日さんを祀り踊る。
特に、申年に富士山に登り参る行事が東豊浜町の土路、西条で行われている。これらは江戸期から続くといわれ、堀内真の「申年の富士参り」によると、元禄2年(1689)の春長坊「駿州富士大宮道者帳」の中に、「六月吉日、勢州度会郡 一、大みなと 孫右衛門 どろむら 同断、にし條 同断」とある。
かれらは船で伊勢湾を渡り、吉田から東海道を大宮まで歩いた。場合によると、登拝後に、秋葉山、奥山半蔵坊、豊川稲荷などをめぐり、吉田からまた船で帰郷した。

 

(3) 市内各地の浅間信仰

A 土路浅間神社のお山

土路の富士講に伝わる「富士蓬莱山由来」、「富士登山道行唄」
道行唄のなかに、船でのよき風を期待する旅の様子が唄われている。行きの神社港から吉田へ「そよとふいたがみなみのかぜが、よしだみなとへそよそよと」また、帰りの吉田から神社港へ「そよとふいたがらない(東南)のかぜが、おいせみなとへそよそよと」

 

B 大世古の浅間さん

古くは、北宮川でコリをとっている。明治41年(1908)に須原大社へ合祀されたが、今も大日如来の石体が祀られている。かつては、白石の敷き詰められた場所に樹木が植えられただけであったが、近年覆屋が整備された。

 

C 佐八町の浅間さん

もとは、秋葉社、愛宕社とともに祀られていた。千限寺跡にあり、江戸末期から、明治、大正に講参していたことが、記念石柱から窺われる。

 

D 御薗町上長屋富士講代参記念碑

上長屋 前田忠吉氏の、「明治二十一年富士講道中記」が残されている。これによると、六月十六日、神社港から汽船で豊橋へ渡り、そこから徒歩で富士をめざし、二十四日に登頂。帰路は名古屋廻りで、七月二日に帰着、十七日間の旅であった。

 

(4) 伊勢志摩各地の浅間信仰(江崎満・写真集)

 

5 著名人の渡海

家光渡海 御座船虎丸の勇姿

寛永11年(1634)7月、将軍家光は、天機奉仕の名目で大兵を擁して上洛します。このとき、山田奉行花房志摩守は組頭七人を随伴。与力六人、水主同心七五人を引率して、御座船虎丸、孔雀丸と、関船小鷲丸、乙矢丸、小鳥丸を三州吉田湊へ廻漕、舳艫堂々と将軍家光を熱田(宮)まで送った。帰路も。
大兵を擁しての上洛は、幕府に抵抗した後水尾上皇を威圧せんがためといわれる。

伊勢に渡った清水次郎長


 

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